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昆布の道
深田

 今月は昆布の話です。
 
 ある資料に、昆布消費量の第一位は富山市だと出ていました。ちなみに第二位は沖縄県の那覇市です。どうして富山や沖縄で昆布が多く消費されているのでしょう。
 
 単純に考えると、富山や沖縄の人は昆布が好きなんだ、きっと昆布がたくさん採れるんだろう、ということになるところです。しかし、昆布は寒い海に育つもので、現在生産されている昆布の95パーセント以上は北海道産です。なんとなく疑問に感じているところに、あるラジオ番組がこの問題を取り上げていました。その番組によると、次のような理由だそうです。
 
 まず、富山と昆布の関係からです。始まりは江戸時代です。当時の富山藩はひどく貧乏でした。富山藩はご存知のように加賀百万石の支藩でした。富山藩は加賀藩の10分の1の十万石でしたが、政治は加賀藩と同じようにやらなければなりませんでした。これではお金が足りなくなるのは当たり前。さらに地形や気象条件のため、大雨による洪水、春のフェーン現象による火災など泣きっ面に蜂の状態でした。
 
 そこで、第二代藩主前田正甫が目をつけたのが薬でした。正甫は独自に研究を行い、反魂丹という薬を自藩の商人に製造・販売させました。これが富山の薬売りの始まりです。多くの薬売りが日本中に薬を売り歩きました。これはこの時代には異例なことで、自由に旅行したり、住所を変えることは禁止されていました。そのため富山の薬売りは他の人々が知ることのできない全国の情報を入手できたのです。
 
 情報を持つということは今も昔も商売にとって有利なことです。売薬で情報を得た富山藩(の商人)が目をつけたのが、北海道(松前藩)でした。江戸中期には開発がすすみ、海産物や魚肥などを他の地方へ出荷し始めていた頃です。この物品輸送と売買を担ったのが北前船で、情報を持っていた富山の北前船は、どこに何を持っていけば売れるかを知っていたのです。
 
 富山の北前船は越中の米を北海道へ運び、その帰りに鮭や鰊肥や昆布などを富山にもたらしました。次にこの船は米を積んで下関まわりで大阪へ運ぶ。そのときに上方に昆布をもたらしました(関西のうどんつゆの味が昆布だしなのも、京都でにしんそばが名物なのも、この北前船のためです)。そして帰りに綿や塩などの産物を仕入れました。こういう航海を年二回ほど行うことにより、北海道、富山、関西をつなぐ昆布の道ができたのです。北前船で運ばれた昆布は富山で大いに消費され、さらに関西にも運ばれ、味の基本になっていったのです。まだ沖縄が出てきていませんが余裕がありません。いずれ機会があればご案内したいと思います。
 
 くどくど説明が続きましたが、富山で昆布が多く食べられていることひとつとっても、地理、歴史、経済などいろいろからんでいます。社会科なんだなあと感じていただけば、社会科担当としては、とてもうれしいことです。

J-PRESS 1999年 2月号