Iさんのこと島竹
先日、野依良治さんがノーベル化学賞を受賞したという知らせがとびこんできた。昨年の白川英樹さんに続く2年連続の日本人の受賞である。なにかと暗い事件ばかりが話題となるこのご時世に、とりわけ嬉しいニュースである。
しかし、ものには光と影があるように、その一方では報われることなく学者人生を終えるものもいる。今回はそんな人のことについて話しをしてみたいと思う。
その人はIさんと呼ばれていた。その昔、彼は判事を務めたキャリアをひっさげ、鳴物入りで某国立大学法学部の助教授として象牙の塔へと迎えられた。Iさんの師はKさんと言い、「その名を知らぬ人はない」という学会のドン。Iさんへの助教授の就任要請は、事実上その地位の後継を含むものとして周囲に受け取られた。
それから数十年の時が流れ、昨年、Iさんは60歳の定年を迎え大学を退官した。しかし、彼の場合のそれは少し奇妙なものだった。なぜなら、学窓を去り行くその初老の男性の肩書きが「助教授」というものであったから…。その肩書きは、学者としての道を歩み始めた若き日に贈られたものと同じもの。万年助教授のレッテルをはられた者の周囲には、その学問を継ぐものはなかった。
学者には二つのタイプがあると思う。その一つは、着実に研究の成果を積み上げるタイプ、いま一つは、才気に溢れ独創的な分野を切り拓くタイプ。Iさんは後者のタイプであり、顧みられることのない領域に新たな理論を持ち込むべく精力的に活動した。
順風満帆にみえたIさんの歩み、しかし、やがて躓きのときがやってくる。アダとなったのは、Iさんの勝気な性格にあった。彼の鋭利な批判が他人に及ぶとき、けっして容赦はなかった。しばらくして、そんなIさんの態度を黙って見過ごすことができないという人が現れた。先輩のHさんである。Hさんは自分の著書で「他人の意見を聞こうとしない人はダメだ」と暗にIさんを指して批判している。
それ以上の真相は私にはわからない、しかし二人の間のわだかまりが解けることがなかったようである。その後、次第にIさんの活動は目立たなくなっていった。研究自体に情熱を失ったのか、あるいは仕事が正当に評価されないことに打ちひしがれたのか、それはIさんの胸の内にしまわれている。ただ、Hさんの言葉を裏付けるように、いたずらに時は重ねた。
このことについて何がいいたいのか。私にはHさんを責める気は毛頭ない。同様に、Iさんに肩入れする気もさらさらない。ただ、めぐり合わせが悪かったとしか言いようがないと思う。
いかに才能にめぐまれ努力を重ねても、それが実を結ばない、こういう事があるのも真実だろう。では、努力することを諦め運命に身を任せてしまうことが賢明かというと、それには反発したくなる。モラリストぶる気はないが、努力はそれ自体に価値がある、そう思うし、そう信じたい。額に浮かぶ汗はそれ自体が美しいではないかと。
なにやらお説教じみてしまったが、特別に何かを言いたいわけではない。ただ、これから寒い冬がやってくる、世間ではこの季節を受験シーズンと呼んでいるそうだ。