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わかること、わからないこと。
島竹

 テレビのプロ野球中継を観ていて、ふと思った。評論家が、やけに難しい言葉で語っていて、こちらにはその意味がわからないと。
 「ボールを呼び込んで打っていますね」、「体勢をくずされましたが、上手くバットをさばきました」という言い方は、その雰囲気が伝わってくるようで、上手い言い方をするものだな、と感心する。ところが、「バットのヘッドが立ったスウィングですね」、「上手く左足を軸に回れています」という表現になると、素人のこちらにはもうお手上げなのだ。まして、「ピッチャーのリリースポイントがばらついていますね」と言われても、こちらにはちっともばらついているようには見えないだけに、よけい打ちのめされたような気になってくる。
 中高生時代は、ラジオの野球中継をよく聞いたが、そう感じることがなかった。ひょっとすると、解説の技術が進歩したのかもしれない。でも、そのことがかえって、視聴者を選ぶ結果につながっていないだろうか。野球のわかる特別な人たちだけが、仲間うちで楽しんでいるようで、こちらの入り込む隙間がないように思えるのだ。
 
 ただ、こうした傾向を悪くいうつもりはない。なぜなら、自分だって立場を変えれば、趣味の世界では、仲間うちの世界に楽しみを見いだしたりしているからだ。例えば、アメリカンフットボール。ここでの実況はというと、こんな調子だ。―「さあ、セカンドダウン・エイトのシチュエーション。オフェンス側はTフォーメーション。さあ、クォーターバックがドロー・フェイクを入れて…、プレーアクションパスだ!あっと、しかし、これはインコンプリート!」―みんなは、この言葉から一体どんなシーンを想像しますか?
 
 スポーツだけに限らず、似たようなケースは他にもあるだろう。「好きな音楽は」という問いにも、人それぞれ答えは違うだろうし、もっと身近なところで「付き合う仲間や友人は」というのもそうだろう。
 考えてみると、「みんないっしょ」というのが、無理な話ではないだろうか。それよりもむしろ、それぞれの人が、それぞれに好きなことを選び取り、その世界の仲間と楽しみを共有していく、という姿のほうが健全なのではないかと思う。
 
 中学3年生のみんなの中には、自分の進路について迷っている人もいるだろう。仮に「普通科」と言っても、最近ではその中でも「英語コース」、「情報処理コース」というふうにいろいろなカリキュラムがあるそうだ。こうした選択は初めてのことだから、「自分が本当は何をしたいのか」、「自分には何があっているのか」という問いに答えるのは、そう簡単なことではないだろう。
 でも、この選択が人生の第一歩となるものかもしれない。周囲の顔色をうかがう必要はない。ありったけのイメージを膨らませて自分の力で進むべき道を選び取ってもらいたい、そう思う。

J-PRESS 2002年 9月号