城西セミナー城西セミナー

キは基準のキ
石川

 私の身長は、180cmです。
 私の身長は、5フィート11インチです。
 
 どちらも同じ長さですが、基準となる単位が違うため、数字が全く違ってきます。普段、基準が違うことによって会話が成り立たなかったり、意見が食い違ったりして困ること、ありませんか?
 
 たとえば、10cmの積雪といえば富山県民にとっては普通ですが、東京でこれだけ積もると大雪です。「平年の降雪量」という基準が違うので同じ積雪でも印象はガラリと違います。
 
 「部屋を綺麗にしなさい!」と親が子供に口やかましく言う場合、「綺麗の基準」が親と子で違う可能性があります。親から見ると散らかった部屋でも、子供から見ればそれなりに整理された部屋だったりするわけです。すると子供にしてみれば「なんでこれ以上片付けなきゃいけないんだ」と不満が生じ、親子断絶の危機。もちろん、単にずぼらな場合も多いですが。
 
 勉強についても同様のことが言えます。「一所懸命勉強しなさい!」「真面目に授業を受けなさい!」と親や教師が言っても、言っている側と言われている側で「一所懸命」や「真面目」の基準が違えば気持ちは伝わりません。
 
 互いの基準が違う場合、基本的に選択は3つ。どちらかの基準に合わせるか、互いに歩み寄って新しい基準をつくるか、互いを譲らず決裂するか。
 
 基本的には、互いの意見を尊重し合い双方が納得できる第3の基準を作り上げるのが良いのでしょう。しかし、互いに歩み寄るのが必ずしも最適だとは思いませんし、一方的に相手に合わせるのが良いことだとも思えません。時にはどうしても譲れない基準だってあるはずです。某国の基準では他国の国民を拉致しても悪いことにはならないようですが、そんな基準に歩み寄るわけにはいきませんよね?
 
 しかし、矛盾するようですが「善悪の基準」ですら絶対的なものではありません。17世紀の日本ではキリスト教は違法でしたし、19世紀までアメリカでは奴隷として人身売買が合法的に行われていました。現代のオランダにおいて大麻は合法です。
 
 様々な基準が存在するからこそ、しっかりと「自分の基準」を持っていなければ、周りに振り回されて自己を見失いかねません。各自がいろいろな経験を積んでそれぞれの基準をつくり上げ、主張すべきは主張し、しかし、譲り合うべきは譲り合って新しい基準をつくっていけば、少しは住み良い世の中になるのかなと思います。
 
 最後に謝らなければならないことがあります。善悪の基準で言えば、嘘をつくのは悪いことだと思いますが、ひとつ嘘をついていました。私の身長は179.5cmです。少し見栄をはって、つい四捨五入。ごめんなさい。

J-PRESS 2005年 2月号