「嫌い」の作法深田
小説家の吉村昭氏の随筆に、食べ物の好き嫌いの話が出ていた。
氏の知人に「土の中に埋もれていたものは一切食べない」という人がいるという。
ダイコン、ニンジン、ゴボウ、イモ類を一切受けつけない。
「土の中は闇である。その闇の中にじっとしていたものは薄気味が悪い」というのがその理由である。ニンニク、ラッキョウ、こんにゃくもダメだという。
こんにゃくなんかは、四角い姿にまでなって変身しているのだから、許してやってもよさそうに思うのだが、それでも許せないらしい。
これは人から伝え聞いた話なのだが、「水中にいたものは一切ダメ」という人もいるそうだ。
魚・貝・えび・カニ・昆布・わかめ・イクラなど一切ダメ。豆腐もダメだという。
以上取り上げた二者は「なるほど、そういうふうにも考えられる」と思わせる“論理派”である。
しかし、食べ物の好き嫌いには、論理のない人の方が多い。
三島由紀夫はカニが嫌いで、姿を見ただけで真っ青になってふるえあがったという。こういう“形状派”は多い。
鶏肉を嫌いな人の多くは、その皮の形状を嫌うようだ。彼らは鶏の皮のブツブツを想像しただけでトリ肌が立ち、その自分のトリ肌を目の当たりにしてさらにトリ肌が立つ。
「魚の切り身は大丈夫だが、顔が付いているのはダメ」という人も多い。
顔というより目が問題で、「目がにらむからコワイ」ということになる。悪いことをしているわけではないのだから、堂々としていればいいのに、ついうつむいてしまう。
野菜の中でも、ニンジン、ピーマン、トマト、ニラなどを嫌う人が多いようだ。
私の知人にも、徹底したニンジン嫌いがいて、チラシ寿司の中の小片まで、一つ一つ探し出しては取り除いて食べている。
こういう人たちは、その味、匂い、歯ざわりを嫌っているのである。この“味・匂い・歯ざわり派”には理由がない。
私も、現在は特に嫌いな食べ物はないが、中学生のころまでは、タケノコの煮物が嫌いだった。
タケノコご飯やてんぷらなどは問題なく食べられたのだが、煮物だけはどうしても食べられなかった。
あの、タケノコと昆布が合わさった特有の匂い、一口かんだときの歯ざわりが嫌だった。(今は大好き)
タケノコの煮物が好きな人は「そこがおいしいのに」と言うが、嫌いな人は「そこが嫌い」なのだ。理屈もなく嫌なのだ。
偏食はよくない、好き嫌いせずに食べよう、ということになっているが、はたしてそうか。
私も何でもおいしく食べられるほうがいいと思う。ただ、好き嫌いは時とともに変化していく。「これだけはどうしても嫌だ、これだけは食えぬ」というのは、大袈裟かもしれないが、その人のアイデンティティーそのものと言えるかもしれない。